2012年3月11日日曜日
1年前の思い出 あの地震の時
震災の事 ちょうど1年たって、あの日の事を記録しておこう。
カントパパはあの時、1年ぶりにNYから来ていた友だち&奥さん&お嬢さんに合うため吉祥寺の井の頭公園近くにいた。ランチを兼ねて(不謹慎にも)お昼から一杯飲んでいた。
(地震の発生時)
鉄筋コンクリート打ちっぱなしの炉端焼き(吉祥寺磯丸水産)の壁際の席にいた
地震の大きさに驚きはしたものの、コンクリート構造物の門の位置にいるし、特にモノが落ちるわけでもなく、むしろ安心し建物外には出なかった、というよりそのまま飲んでいた(笑)
携帯などでJR中央線他の停まっていることを確認し、復旧には相当時間がかかることを予想し強いて動かたかった。JR頼みのカントパパには実際のところ動き様がなかったのだ。
(6時前後)
炉端焼きを出てから、時間つぶしに井の頭公園を散歩した。公園の中も人々に特にかわった様子はなかった。喫茶店でお茶をし4人で作戦会議の後、6時ころ吉祥寺へ向かった。中央線も井の頭線も依然として復旧の見込みはない。バスターミナルやタクシー乗り場の行列が既にはじまっていた。
そこでまた時間つぶしのため、友だちと(不謹慎にも)ビリヤードへ。落ち着ける場所はそこしか思い出さないカントパパであった。そこでまた電話で情報収集。電話で家の嫁さんとも話をし、JR復旧の可能性が薄いのを確認する。
(8時頃)
状況の変化を期待し、8時頃また吉祥寺駅へ
依然としてすごい混雑の中、皆電車の復旧を待っている。
ここで、友人と話をし、方針を決定した。
交通機関の復旧は見込めないとし、徹夜になると想定、まず温かい居場所の確保をした。
2階のアトレのフロアーの床に絨毯のやや温かいCFのある場所、人目をあまり気にせず横になれ、かつトイレに近い場所を陣取った。8時ころのこの場所では床に座っている人もちらほらはいた。私たちはかなり早い方であり、いちばん居心地のいい場所である。この後時間がたつにつれ続々と人が集まってきて、12時頃は立ち上がって歩くのにも気をつかないといかない状態になっていた。
とりあえず居場所を確保し友人とカントパパは、友人の奥さんお嬢さんにはそこで待っていてもらい、二人で皆の宿泊できる場所を手分けして探した。
しかし既に遅く、恐らく6時前にはこの状況を見越した人達が宿泊を既に入れてしまっていたと思われる。東急系のホテルをかわきりに数件のホテルもだめ、カラオケボックスもネットカフもすでに一杯であった。少なくとも温かい場所をすでに確保しているとはいえ、友人の奥さんもいっしょにいるのに申し訳ない、自分の甘さに愕然としたのを思い出す。
一方、食料の確保もこころみた。我々は早めの夕食は済ましており、空腹状態ではなかったのがあだとなり食料の確保は少し失敗をした。おにぎりなど用意したかったのだか9時ころまでにはコンビニではすぐ食べられるものは無くなっていた。8時ころには、とりあえずマクドナルドが既に従業員を返すため閉店準備をはじめており販売は終わっていた。幸いケンタッキーはまだその時間かろうじて営業していたため、夜食を想定し4人分のセットメニュー+クッキーを確保してた。
営業をしているのは24時間の居酒屋など、呼び込みのお兄さんがなぜか元気だった。しかし次の行動を考えると居酒屋はパス。喫茶店も2時ころで閉店のお店のみだった。
このような状況ではコンビニやチェーン店はあてにならないものなのだ。そりゃそうだ皆家族のもとへ戻りたい!
少なくとも居場所については山登りの経験があるカントパパには最初からいわゆる「遭難の想定」ができていたため、「トイレが近い暖かい横になれる場所で動かないこと」の鉄則通りに行動していたのはゆいいつ幸いであった。
(9時過ぎ)
ふたてに分かれ、約1時間、電話で確認をとりつつも押さえの居場所しかないことを悟った友人とカントパパは友人の奥さんとお嬢さんの待つアトレの2階の場所へ戻る。帰って九時過ぎたころ、奥さんが「タクシーやバスに乗るために並んだほうが良いのでは?」という話もあったが、大渋滞のためバスやタクシーも動いていないと推測し、暖かく座っていられるこの場所を動かない方針とした。すでにこの時間では駅ビルの建物の暖かい場所は既に人でうまり、寒い建物の外に人がたくさん立ちすくんでっている状況であったからだ。
この時JRは駅構内を締め切っており、本来なら困り果てた人々を駅構内でサポートしてもよかったはずだなのだが。JRは自分たちの敷地からただ私達を排除しただけだった。
それに比べて商店街を有する「アトレ」は優しかった、JRみたいに出ていけなどとは言わなかった。(まあふつうあの時は言えないが・・・・・)。後日JRの対応に批判がでたのは当然であったと思う。安全上の定めがあるのはわかるが、あれはひどいと思った。
九時過ぎのアトレのフロアに大勢の人達とともに座り込みつつも、まだ眠るわけにもいかず、つながらない携帯などいじくっていた。友人の娘は日本語の少しへたくそなかわいらしいお嬢さんで、お洒落ないでたちでフロアに座っていると非常に違和感があったのを思い出す。お嬢さんが米国の大学の卒業試験を控えているため厚い本を読んでいたのでよけいだったのか。
充電が切れそうなカントパパのウィルコムのPHSはけっこう繋がっていた。この地区では携帯よりはPHSの方が使えた。
時々JRの公園口改札前の井の頭線の乗り換えスペースにはただ立ちすくむ人達を横目に、情報収集のお散歩をしていた。
あの時大型掲示板にTVが放映されていたのか?色々状況を知る上で非常に役に立ったのを思い出す。10円玉の持ち合わせの少なさに不安な気持ちで皆と一緒に並んで緑の公衆電話。その後硬化が戻りタダで通話ができて感動したのを思い出す。
(12時頃)
12時近くになって動きがあった、井の頭線がそのころ復旧したのだ。駅員のアナウンスを横目にいち早くその復旧の気配を察知し、友人家族のもとへ戻った。
渋谷までは行ける!そこまで行ければ最悪1時間程度で自由が丘の友人宅には辿りつけそうだとのこと。友人の奥さんの強力なお誘いもありカントパパも一緒に行くことになった。
アウトドア派のカントパパにすれば吉祥寺の駅ビルで一晩寝るのも楽しいかなとも思っていたが、友人夫婦は普通の人。家でゆっくり寝たいと思うのが当たり前。むしろこの状況を楽しいんでいるカントパパは不謹慎である。
(12時半過)
その後始発の井の頭線に乗り、渋谷駅へ着く。
と、そこは何とも言えない雰囲気に包まれていた。いつもの渋谷駅ではない。すごい緊張感のただよう、ビリビリの殺気立つような人々の雰囲気。もくもくと列を作り待つ人や早足で動き回る人。通路に新聞紙をしいて座り込む人も多かった。皆困っているのだ。
バスターミナルもタクシー乗り場もすごい人の数。吉祥寺とはくらべようもない。とりあえず東横線の改札方面へ歩く。なぜか4人で手をつないでいた。カントパパは奥さんと手をつないでいた。異様な雰囲気の中はぐれちゃまずいと思ったのだろう(笑)
その時友人奥さんの言っていたこと、「日本人て偉い!NYの人なら絶対にこんな状況で冷静に列を作ってならんだりしないは!」NY生まれNY育ちのお嬢さんも同じ事を言っていた。国民性なのだろうカントパパはしきりにうなずくだけ(笑)
(1時前)
幸いなことにその後まもなく東横線も復旧したため、帰路につけた。後で聞くと復旧の早い路線を乗り継いでいた様で、あまり困ったという印象はなかった。
(2時半前)
田園調布駅からあるいて自由が丘の家へ向かう途中環状7号のすごい渋滞を見た。あれではバスもタクシーも仮に乗れたとしてもだめであったろう。山の遭難の鉄則は都会の非常事態でも役に立った。
自宅についてわずかづつ流れてくる情報に、皆であぜんとした。「吉祥寺で良かった。湾岸方面の観光スポットにでも観光にいっていたら大変だった。」奥さんがつぶやいていた。
(翌日)
自宅にもどり嫁さんにいきなり怒られた。昨晩吉祥寺駅から携帯電話の充電が切れて、公衆電話で友人宅に行く旨連絡したきりであった。友人宅から自宅に連絡をするべきだったか・・・・。
このとき自宅はまったく被害はなかった。嫁さんの勤め先の自動車部品のロジスティックでは棚が倒れてたいへんだったそうだ。
時間が経つに連れ判明する被害状況にそれから数日間は愕然としていたのを思い出す。
その時カントはどうしていたのだろう全く記憶がない。当然この時期毎日散歩をしていたのだが、写真位とっておけばよかった。今になって後悔する。
この一ヶ月先に旅立ってしまうとは思いもよらなかった。
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