今の乗っている車(プログレ)の前(レガシーランカスター)の前の車の写真がでてきた。
おそらく引き取りの前に記念にとったものだ。
思えばギャランVR4を手放しワゴンタイプのレガシーにかえたのも、カントをゆったりのせられるという理由からであった。カントもギャランには半年くらいは乗ったのかな。いつも後部座席に固定したゲージの中で小さくなってた。大きくなると少しきゅうくつなってしまい、レガシーへと乗り換え。
いま考えるとカントは贅沢なワンこだ。
さて、いま思えばギャランもいい車だった。
独身のころスキーの大好きだったカントパパはスキーシーズンには毎年約一ヶ月分の日数スキー場に足を運んでいた。当然その足は自動車。その時4WDのギャラン+スタッドレスはすごく頼もしかった。一番すごいと思ったのは雪道での下りでの安心感。
当時スキーの帰りは雪道の山中での渋滞することがままあった。原因は十分な準備もしないままFRにチェーンを付けてオッカナビックリ走って後ろに渋滞をつくるやからの車。5~6台の先の車がこれでも対向車が来ないと確認できればバンバン追い抜きがこの車は可能だった。下りでもほとんどブレーキは踏まないしろ、シフトダウンした際にタイヤが滑り始めるのは雪道ではよくあること、それをいい塩梅でコントロールしてくれるのがギャランだった。まあ若かったから出来たんだが(苦笑)
ギャランVR4に敬意を表してすこし当時の資料を載せておこう。
写真は RALLY-M より、解説は 三菱自動車 より
(以下 引用)
1987年よりWRC(世界ラリー選手権)は年間2500台以上生産される市販車をべースとするグループA車両により争われる選手権となり、市販モデルの
外観を改造してはいけないなど、多くの制約がラリーマシンに課されるようになった。そこで各メーカーは、競技モデルを見据えた市販モデルの開発を行なうよ
うになり、三菱も他メーカーと同様にラリー参戦を視野に入れた市販車の開発に着手した。
そして開発されたのが、DOHCの4G63型エンジンとフルタイム4WD機構を備えた「ギャランVR-4」だった。ギャランVR-4は1988年のニュージーランドラリーに篠塚建次郎の手によりデビューし、11月のRACラリーで、三菱にとっては83年以来となるWRCのヨーロッパイベント復帰を飾った。先代モデルのスタリオンから4WD機構などの技術を受け継ぎ、ギャランVR-4はWRCとAPRC(アジア・パシフィックラリー選手権)に出場、APRCの初年度となったこの1988年には、篠塚建次郎のチャンピオン獲得の大きな原動力となった。
続く1989年にはアクロポリスラリーにおいて総合4位でWRCポイントを初獲得し、1000湖ラリーでは1976年サファリラリー以来のWRC優勝を三
菱にもたらした。その後もRACラリーで優勝を飾り、この年、ランチアに次ぐ2勝を記録した。1990年には優勝こそなかったものの、2戦で2位入賞、マ
ニュファクチャラーズ・ランキングで3位に入った。また、この年はプライベート勢の活躍も目立ち、WRCコートジボアールラリー(旧称:バンダマラリー)
でP・トジャックが優勝し、その基本性能の高さを実証した。ギャランVR-4は1989~1990年もプライベート勢がAPRCに参戦し、R・ダンカート
ンが2年連続でランキング2位の好成績を残した。
(引用 終)
かっこよかったな。
ギャランの真骨頂はもうひとつあったのを思い出した。結婚前、遠距離〇〇だったカントパパは週末はいつも高崎へ行っていた。冬はいつも高崎経由で初心者だった今の奥さんと宝台樹スキー場へ通った。その時もギャランは大活躍。この車がなかったら続かなかったろう。
そういえば、カントパパは河辺駅前の三菱に篠塚健次郎が当時来た時にもならんで握手をしに行った。
PS
今日の東京は夕方は台風で強風。家が揺れていた。二階のベランダのビニールの温室が倒れ、観葉植物の鉢がいくつか割れた程度で済んだ。
被災した地域の皆様には一日も早く日常の生活に戻れることをお祈り申し上げます。
18時半ころには収まったが、気象庁のレーダーの写真を記念に貼っておく。
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